分子基礎理論第四研究部門
平 田 文 男(教授)
A -1)専門領域:理論化学、溶液化学
A -2)研究課題:
a) 溶液内分子の電子状態に対する溶媒効果と化学反応の理論 b) 溶液中の集団的密度揺らぎと非平衡化学過程
c) 生体高分子の溶媒和構造の安定性に関する研究 d) 界面における液体の統計力学
A -3)研究活動の概略と主な成果
a) 溶液内分子の電子状態に対する溶媒効果と化学反応の理論:溶液中に存在する分子の電子状態は溶媒からの反作用 場を受けて気相中とは大きく異なり,従って,分子の反応性も違ってくる。われわれは以前にこの反作用場を液体の 積分方程式理論によって決定する方法(R ISM-SC F 法)を提案している。この理論を使って2002年度に行った研究の 主な成果を以下にまとめる。
(i)水溶液中のルテニウム錯体の電子移動反応:水溶液中のルテニウム錯体は金属蛋白質内の酸化・還元反応のモデル系 としてしばしば文献に登場する。しかしながら,錯体の電子状態と分子レベルでの溶媒の揺らぎを同時に考慮した理論的解 析はほとんど行われていない。われわれは以前に R IS M 理論に基づき,酸化・還元ペアの周りの溶媒の揺らぎ(or マーカス のパラボラ)を求める理論[S. -H. Chong, S. Miura, G. Basu and F. Hirata, J. Phys. Chem. 99, 10526 (1995)]を提案している が,今回,この理論とR ISM-SC F 理論を組み合わせて,水溶液中におけるルテニウムのアミン6配位錯体の電子移動反応に 関する電子状態変化および溶媒の揺らぎを調べた。その結果,酸化還元反応のプロセスでルテニウム上の電荷(電子状態) はほとんど変化せず,電子は概ねアミン配位子から抜けることがわかった。また,溶媒座標に沿った反応自由エネルギープ ロファイルは,ほぼ,完全にパラボラであり,溶媒の揺らぎが線形的であることが分かった。[J. Phys. Chem. 106, 2300 (2002) に既報]
(ii)溶質−溶媒間の電子交換をあらわに考慮した溶液内電子状態理論の提案:溶液中における種々の化学過程において, 電子に起因する現象は枚挙に暇がない。例えば,溶液中の化学反応はその好例であり,科学の根幹をなす非常に重要な現 象である。近年,このような現象を理論的に取り扱うために,連続誘電体モデル,QM/MM法,R IS M-S C F 法といった溶液中 分子の電子状態理論の開発,応用が盛んに行われている。既存の溶液中分子の電子状態理論のほとんどは,分子間相互 作用を,古典的な静電相互作用と古典的な近距離力の和で近似している。このため,交換反発等の量子論的な近距離力 を考慮しておらず,また,古典的な近距離力(例えばLJ相互作用)を用いるという意味で経験的な理論的枠組みとなってい る。そこで本研究では,分子間相互作用を量子論的に取り扱うことにより量子論的な近距離力を考慮し,気相中の電子状態 理論と同等の意味での非経験的な溶液中分子の電子状態理論の構築に取り組んでいる。本研究において構築された理論 は既に,単純液体の電子状態,並びに単純液体中の溶媒和電子について成果を上げており,現在投稿準備中である。 b) 溶液中の集団的密度揺らぎと非平衡化学過程:われわれは昨年までの研究において,液体の非平衡過程を記述する
上で相互作用点モデルが有効であることを示し,そのモデルによって液体中の集団的密度揺らぎ(集団励起)を取り
出す方法を提案してきた。さらに,その理論に基づき溶液内の化学種のダイナミックス(位置の移動,電子状態,構造 変化)をそれらの変化に対する溶媒の集団的密度揺らぎの応答として記述する理論を展開しつつある。この分野の 研究の主な成果は以下のとおりである。
(i)ブタノ−ル−水系の溶液構造:アルコール−水系は典型的な水素結合性液体からなる溶液として,古くから実験的,理論 的研究が行われて来た。中でもブタノール−水系はその特異な熱力学的挙動のため,多くの研究者の興味の対象となって きた。例えば,この系の圧縮率はある濃度において臨界現象にも似た極めて大きな値をとることが知られている。一方,この 系の理論的研究は,まさに,その特異なふるまいの故に極めて難しい問題とされてきた。最近,われわれは物理的に不安定 な領域でも数値解を求めることができる新しい理論を提案している。今回,この理論を使って,水−ブタノール系の溶液構造 を解析した。その結果,ブタノール−水系の溶液構造に関して以下のような描像を得た。まず,水の中に無限希釈のブタノー ルが混合している系では,水の水素結合ネットワーク構造が基本となり,そのネットワーク構造の中にブタノールが水と水素 結合をつくりながら組み込まれている。さらにブタノールの濃度が高くなると,水の水素結合ネットワークに組み込まれたブタ ノール同志がそのブチル基を接触するように溶け込んでいる。すなわち,一種の小さなミセルが出来たような状態である。逆 に,ブタノール中に水分子が一個だけ存在する濃度(無限希釈)では,ブタノールの水素結合によるジグザグ鎖構造の中に, 水分子が水素結合によって組み込まれたような構造をとっている。これまで,ブタノール−水系の溶液構造については様々 な実験からいくつかのモデルが予想されているが,今回,分子レベルでの予断のない構造が明らかになったわけである。 (ii)密度汎関数理論に基づく高分子液体の理論:高分子液体は分子間の自由度と分子内自由度とのインタープレイの結果, 高密度の領域でいわゆる「高分子溶融体」(polymer melt)状態に転移する。これまで,この問題に対して,R ISM理論を適用 した報告がなされているが,分子内のいわゆる「排除体積効果」については考慮がなされていない。本研究においてわれ われは昨年開発した密度汎関数理論(D F T )[J. Chem. Phys. 115, 6653 (2001)]を高分子液体に適用し,排除体積効果を 取り入れた理論を提案した。この理論ではD F T に対する参照系として理想高分子鎖からなる系を採用した。この系では多 体効果は理想鎖に作用する平均場として記述される。「排除体積効果」を取り入れるために,孤立した単一高分子鎖の分子 内相関関数に対する近似的な表現を提案した。この分子内および分子間の相関関数は同様のモデルに対して行われたシ ミュレーションの結果と略一致した。[J. Chem. Phys.に印刷中]
(iii)水の誘電緩和は,何故,D ebye緩和になるか? :水の誘電緩和が非常によいDebye緩和のふるまいを示すことはよく知 られている。しかしながら,水が非常に発達した水素結合ネットワークを形成していることを考慮すると,このD ebye的な誘電 緩和のふるまいは極めて不思議な現象であり,古くから研究者の大きな疑問となってきた。本研究においてわれわれは相互 作用点モデルで記述した一般化ランジェヴァン方程式をモード結合理論と組み合わせた新しい液体ダイナミクス理論を提 案し,この理論に基づき,水の誘電緩和の振る舞いを解析した。誘電緩和スペクトルに関する計算結果は概ねDebye型の緩 和を示し,高周波数においてDebye緩和からの小さいずれが見られた。これらの結果は定性的に実験と一致している。詳細 な解析の結果,水がD ebye型の緩和を示す理由として以下の結論を得た。①誘電緩和時間(tD)と縦方向の分極緩和時間
(tL)の間に大きな差があり,tLはtDよりかなり小さい。②この結果,分極緩和は誘電緩和プロセスに対して白色のノイズとみな すことができる程速く変化し,誘電緩和曲線はD ebye型となる。さらに,③上に述べた二つの緩和速度における差は水の大 きな誘電率に起因する局所場補正によって説明できる。[Mol. Phys.に印刷中]
(iv)水の粘性の圧力依存性:粘性をはじめとする水の輸送係数は常温においてその圧力依存性がある圧力で逆転する。例 えば,粘性の場合,定圧から50 MPa付近までは減少し,その後,増加に転じる。この後者のふるまいは単純液体にも見られ る一般的なふるまいであり,これまでにも多くの理論が提案されている。しかしながら,前者の挙動についてはこれまで分子 レベルからの有効な理論は無く,「圧力を加えると水の水素結合ネットワークが壊れ,水分子が動きやすくなる」式の情緒的
な説明が行われているに過ぎない。我々は相互作用点モデルに基づく一般化ランジェヴァン方程式とモード結合理論を組 み合わせた理論によりこの問題の解明に取り組んだ結果,以下の結論を得た。①水のずれ粘性係数,誘電緩和時間,並行 拡散係数,第一ランクの回転緩和時間の圧力依存性を計算し,いずれの場合もその依存性が逆転することを初めて統計力 学的に見い出した。②圧力とともに「運動が速くなる」現象(負の圧力効果)は並進運動に比べて回転運動の方が大きく,こ の点も実験の傾向と一致している。③水が負の圧力効果を示す主な理由は小さな波数での集団的分極に対する誘電摩擦 が圧力増加とともに減少することにある。④誘電摩擦の減少は圧縮によって構造因子の第一ピークの低波数端周辺の数密 度が減少することに起因する。⑤アセトニトリルおよび仮想的な水素結合性二原子分子液体との比較から,水の有する二つ の特徴が負の圧力依存性にとって本質的であることが分かった:(a)水分子が球形であることにより,その再配向に対する衝 突摩擦が小さいこと,(b)水素結合による(短距離の)強いクーロン相互作用をもっていること。[J. Chem. Phys.投稿中] c) 生体高分子の溶媒和構造の安定性に関する研究:本研究課題の最終目的は第一原理すなわち分子間相互作用に関す
る情報のみから出発して蛋白質の立体構造を予測することである。蛋白質の立体構造予測(すなわちフォールデイ ング)には二つの要素がある。そのひとつは広い構造空間をサンプルするための効果的なアルゴリズムであり,他は 蛋白質の構造安定性を評価する問題である。蛋白質の安定性はそれが置かれている環境すなわち熱力学的条件に よって完全に規定される。この熱力学的条件には溶媒の化学組成(溶媒の種類および共存溶質の濃度),温度,圧力な どが含まれる。本プロジェクト「溶媒班」は蛋白質の構造安定性に対して熱力学的条件が与える影響を分子レベルで 明らかにする目的で,その素過程として,アミノ酸やペプチドおよび疎水分子の水和現象を分子性液体の統計力学
(R IS M理論)に基づき解析している。これらの解析は蛋白質の安定性に関わる物理的要因を分子レベルで解明する だけでなく,今後,蛋白質のフォールデイングを実際に実行するうえで重要となる溶媒和自由エネルギーを計算す るための方法論的基礎を与えるものである。
(i)電解質水溶液の部分モル容積および部分モル圧縮率:水溶液内のイオンの部分モル容積および部分モル圧縮率は古 くから多くの実験研究が行われ,イオンの周りの水和構造との関係が議論されてきた。しかしながら,これらの物理量は系全 体の密度やその揺らぎを問題にしているため,イオン近傍の水和構造を分子レベルで解析するには適さないとされてきた。 例えば,イオン近傍の水の構造に関するF rank-W en のモデルを適用しようとすると,いわゆるA -領域(イオンの電場に水分 子が強く引き付けられている領域)もB -領域(イオンの電場と水分子間の水素結合が拮抗して,水分子が却って動きやすく なっている領域)も部分モル容積に対して負の寄与をすることが物理的考察から予想される。本研究では以前に開発した 理論(R ISM-K irkwood-B uff理論)とMatsubayashiらのシェルモデルに基づき,水溶液中のアルカリ金属イオン(L i, Na, K , C s) およびハロゲン化物イオン(F , C l, B r, I)の部分モル容積および部分モル圧縮率を求め,イオンの周りの水の構造に関する 微視的構造を抽出することを試みた。その結果,イオンに最近接の水は部分モル容積に対してイオンの種類に関わらず常 に負の寄与をするが,部分モル圧縮率に対してはイオンの種類によって異なる寄与をすることが明らかになった。すなわち, 上記のA -領域の水は部分モル圧縮率に対して負の寄与をし,B -領域の水は逆に正の寄与をする,すなわち,B -領域の水 はより圧縮しやすくなる。このことはランダウの揺らぎの理論によって説明することができる。すなわち,B -領域では水分子が 動き易くなって,密度揺らぎが大きくなっているのである。[J. Phys. Chem. B 106, 7308 (2002)に既報]
B -1) 学術論文
K. NISHIYAMA, F. HIRATA and T. OKADA, “Nonlinear Response of Solvent Molecules Induced by Instantaneous Change of Solute Electronic Structure: Studied by RISM Theory,” J. Mol. Struct. 31, 565–567 (2001).
A. KOVALENKO and F. HIRATA, “Description of a Polar Molecular Liquid in a Disordered Microporous Material with Activating Chemical Groups by a Replica RISM Theory,” Cond. Matter Phys. 4, 643–678 (2001).
T. YAMAGUCHI and F. HIRATA, “Translational Diffusion and Reorientational Relaxation of Water Analyzed by Site-Site Generalized Langevin Theory,” J. Chem. Phys. 116, 2502–2507 (2002).
H. SATO and F. HIRATA, “Equilibrium and Nonequilibrium Solvation Structure of Hexaamineruthenium (II,III) in Aqueous Solution: Ab Initio RISM-SCF Study,” J. Phys. Chem. A 106, 2300–2304 (2002).
K. YOSHIDA, A. KOVALENKO, T. YAMAGUCHI and F. HIRATA, “Structure of tert-Butyl Alcohol-Water Mixtures Studied by the RISM Theory,” J. Phys. Chem. B 106, 5042 (2002).
T. IMAI, H. NOMURA, M. KINOSHITA and F. HIRATA, “Partial Molar Volumes and Compressibilities of Alkali-Halide Ions in Aqueous Solution: Hydration Shell Analysis with an Integral Equation Theory of Molecular Liquids,” J. Phys. Chem. 106, 7308 (2002).
T. YAMAGUCHI and F. HIRATA, “Interaction-Site Model Description of the Reorientational Relaxation of Molecular Liquids: Incorporation of the Interaxial Coupling into the Site-Site Generalized Langevin/Mode-Coupling Theory,” J. Chem. Phys. 117, 2216 (2002).
T. KIMURA, N. MATSUBAYASHI, H. SATO, F. HIRATA and M. NAKAHARA, “Enthalpy and Entropy Decomposition of Free-Energy Changes for Side-Chain Conformations of Asparatic Acid and Asparagine in Acidic, Neutral, and Basic Aqueous Solutions,” J. Phys. Chem. B 106, 12336–12343 (2002).
B -3) 総説、著書
平田文男、佐藤啓文 , 「反応の理論解析」, 荒井康彦監修「超臨界流体のすべて」第 4章 2-2, テクノシステム (2002). A. KOVALENKO and F. HIRATA, “Towards a Molecular Theory for the Van Der Waals-Maxwell Description of Fluid Phase Transition,” J. Theor. Comput. Chem. 1, 381–406 (2002).
B -4) 招待講演
平田文男, 「ナノ科学における液体論の諸問題」, 分子研研究会「液体と分子科学―液相分子の微視的構造と化学反応」, 岡 崎コンファレンスセンター, 2002年 2月 .
平田文男 , 「水溶液中におけるナノ集合体の自己組織化」, 「分子スケールナノサイエンス研究会」, 岡崎 , 2002 年 3 月 . 平田文男 , 「ナノ科学における液体論の諸問題」, 「計算ナノサイエンス研究会」, 岡崎 , 2002 年 3月 .
平田文男, 「生体分子の自己組織化と水」, 分子研研究会「水と生体分子が織り成す生命現象の化学」, 岡崎 , 2002年5月 . F. HIRATA, “Combined Quantum and Statistical Mechanics Approach for Hydrogen-Bonding in Solution,” Japanese-Polish Seminar “Advances in Hydrogen-bond Research,” KEK, Tsukuba, June 2002.
F. HIRATA, T. IMAI, Y. HARANO, A. KOVALENKO and M. KINOSHITA, “Theoretical Study of Partial Molar Volume and Compressibility based on the Kirkwood-Buff theory combined with the RISM/3D-RISM Equation,” The 85th CSC Symposium “Aqueous Solutions: Experiment and Theory,” Vancouver, B. C.(Canada), June 2002.
平田文男, 「生体分子の構造揺らぎと部分モル容積」, 日本化学会秋期年会シンポジウム「生体分子科学と溶媒分子」, 豊 中 , 2002 年 9 月 .
A. KOVALENKO and F. HIRATA, 「ナノ細孔中の水およびアルコールの気液相転移」, 「液液界面ナノ領域の化学」第2 回公開シンポジウム, 仙台 , 2002年 7 月 .
F. HIRATA and A. KOVALENKO, “Phase Behavior of Solutions Confined in Nanoporous Media,” Yangtze Conference of Fluids and Interfaces, Nanjing-Chongqing(China), October 2002.
平田文男 , 「液体の密度揺らぎと溶媒和ダイナミクス―物理の液体論から化学の液体論へ―」, 分子研研究会「複雑 凝集系の分子科学」―藤山常毅先生没後の歩みと将来への展望― , 岡崎 , 2002年 11月 .
平田文男, 「溶媒の密度揺らぎと電子移動過程:R ISM-SC F 理論による解析」, 多元研シンポジウム「再配向エネルギーと光 エネルギー変換」, 仙台 , 2002年 11 月 .
平田文男 , 「化学反応制御因子としての溶媒とその揺らぎ」, 25回情報化学会討論会 , 豊橋 , 2002年 12 月 .
平田文男 , 「量子化学における溶媒和の取り扱い:R IS M-S C F 法とその新展開」, 2002 高分子計算機科学研究会「量子化 学の最前線と高分子への応用の可能性」, 東工大 , 2002年 12月 .
平田文男 , 「R IS M 理論の最近の発展」, 第 16回分子シミュレーション討論会 , 新潟 , 2002年 12月 .
B -5) 受賞、表彰
平田文男 , 日本化学会学術賞(2001). 佐藤啓文 , 日本化学会進歩賞(2002).
B -6) 学会及び社会的活動 学協会役員、委員
溶液化学研究会運営委員(1994- ). 学会の組織委員
「計算ナノサイエンス」研究会組織委員 (2002年 3月).
分子研研究会「水と生体分子が織り成す生命現象の化学」 組織委員長 (2002年 5月). 学会誌編集委員
Phys. Chem. Commun., Advisary Board.
Theoretical and Compulational Chemistry, 編集委員.
C ) 研究活動の課題と展望
当グループではこれまで多原子分子液体の統計力学であるR IS M理論を他の理論化学・物理の手法と組み合わせ,溶液 内の様々な化学過程を解明したきた。しかしながら,これまである意味では意識的に避けてきた問題がある。それは相転移 および相平衡の問題である。気液相転移,液液相分離,ミセル形成,などはその例である。相の変化は常にある種の熱力学 的不安定性と隣り合わせであり,そのような領域の近傍ではわれわれが依拠する積分方程式の数値解も不安定となり,しば しば発散する。これは物理的発散である。一方,液体の積分方程式は非線形の方程式であり,その特性として,本来,物理 的に安定な領域でもしばしば発散する。これまで,液体の積分方程式理論が相変化の問題に対してあまり有効ではなかっ た理由はまさにこの点にある。すなわち,相が変化する領域では「物理的発散」と「数値的発散」の区別がつかず,相転移を 明確に特徴づけることができなかったのである。ふたつの相の境界ではもうひとつ難しい問題がある。それは平均の密度(濃 度)が位置に依存することである。これまで,われわれが発展させてきた液体論は平均の密度や濃度が場所によらない,す
なわち,一様な液体を前提にしてきた。したがって,二つの相の境界の化学を解明するためにはこのような制限を取り払う必 要がある。
最近,当グループでは新しい積分方程式理論(R IS M+K H 理論)を開発した。この理論はちょうどvan der W aals理論と同様 に物理的に不安定な領域でも数値解を与えるため,Maxwellの等面積仮説のような理論構成を行えば,気液および液液共 存線を決定することができる。また,密度汎関数理論との結合により,二つの流体の界面の問題を解明することができる。今 後,この理論により気液相転移,液液相分離を含む流体間の様々な相転移現象に取り組む予定である。それらには,気液相 転移,液液相分離,ミセル形成,膜融合などを含む。
これまで,相分離や相平衡に対する興味はもっぱら物理的それであった。スケーリング則やユニヴァーサリテイークラスなど はその典型的な例であり,いわば,相転移現象の物理的普遍性に焦点が当てられていた感がある。 当研究グループで追 求する相転移,相分離現象における興味の中心はその「化学」にある。例えば,ある溶液は温度を上げていくと二つの液液 相に分離し,また,別の溶液は逆に温度を下げていくと二相に分離する。上下に臨界点をもつ溶液も存在する。そのような相 の挙動は分子間相互作用の異なる組み合わせから生じるものであり,極めて「化学的」な性格をもっている。